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Channel: 波動砲口形状研究
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ゼンマイヤマトの系譜 その1

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以前野村トーイのヤマトをいじって以来、過去のヤマトのキットを振り返る活動に目覚めているのだが、その流れでゼンマイヤマトの系譜についてちょっと書いておきたいと思う。

 

宇宙戦艦ヤマトの造形の歴史をたどるとき、まず松本零士によって作られた内部構造図のラフが、

手直しを経て、

加藤直之によって仕上られたこの絵の、

内部構造図部分を覆って彩色された

 

この絵。これを無視することはできない。

この絵は企画書の表紙やパイロットフィルムのタイトル、また放送決定後の一般への番組宣伝の素材としても使われた。

 

すなわち、世に出た「最初のヤマト」の姿ということになる。

 

(図版はいずれも「宇宙戦艦ヤマト大クロニクル」より)

 

しかしながらこの「最初のヤマト」はすぐに他のメジャーなヤマトのイメージの登場によって、早々に姿を消してしまう。

 

 

実際この「最初のヤマト」の絵を印象深く覚えているという人はどれほどいるだろうか。

 

正直私は全く記憶になく、ヤマトの造形を追っかけて資料を集め始めた結果目にするようになったというのが正直なところだ。

 

しかしながら、実はこの最初ヤマトは私が忘れていたというか、意識さえしなかったものの、なじみのある要素をたくさん持っていた。

 

それが本タイトルのゼンマイヤマトなのだか、一旦ここで項を分けたい。

 

 

 

 


ゼンマイヤマトの系譜 その2

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ゼンマイヤマトについてはここを読みに来るような方には釈迦に念仏というところかもしれないが、一応おさらいしておくと、1974年にバンダイから発売された初のヤマトのプラモデルということになる。

 

第三艦橋が無く、代わりにゼンマイで駆動するタイヤが船底についている構造は多くのファンをがっかりさせた。もちろん、私も例外ではなかった。

その後ゼンマイが取っ払われて第三艦橋がついた改訂版が3種類出ることになる。

 

それぞれの異同については、じうこさんのブログに詳しい。

 

1)ゼンマイヤマト

2)銀河モデル(とテレサパネルの比較)

3)テレサパネル(とゼンマイの比較)

4)永久に

 

それぞれ形が違うのだが、2)銀河、3)テレサ、4)永遠にの間の違いはほとんど間違い探しレベルでしかない。大きな変化は1)と2)以降の間に起きている。

 

もちろんその第一がゼンマイの有無なのだが、もうひとつ大きいのが、艦首の造形がゼンマイとそれ以降で大きく変わっているということだ。

 

ゼンマイのなくなった銀河以降は、同時に艦首が大型化されている。

 

ゼンマイと銀河以降のモデルの左右のパーツを貼り合わせると

 

艦首部分位これだけのずれがでるほどなのだ。

 

写真のゼンマイヤマトはネットで買ったものだが、大出費だった。買うかどうか迷っていた時、別に本物が欲しいわけじゃないし、銀河モデル以降のものを入手してゼンマイを付けるのもいいかもしれないと思い立った。

 

ところが、調べているうちにこんな風にゼンマイだけでは話が終わらないということがわかってそれについては断念した。

 

というかそれまで意識していなかったのだが、銀河モデル以降も絶版後久しく、ばりばり切り刻むには勇気がいるくらいには高いのだ。

 

そのあたりのぼやきについてはまた後でということにして、話をこのゼンマイヤマトの系譜に並ぶモデルたちと、「最初のヤマト」の関係についてに移したい…というところで項を分ける。

 

ゼンマイヤマトの系譜 その3

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絶版キットは値段という点もそうだが、もはや限られた数しか残っていないものを自分が作っちゃっていいのかと躊躇する気持ちがある。

 

そういうときにはジャンクで出品された組み立て済みがないか見て回る。それなら財布的にも気持ち的にも楽だ。

 

というわけでしばらく前から組み立て済みの永遠に版を仕立て直す作業をちょこちょことやっているのだが、

 

 

約40年ぶりに触れてゼンマイヤマト系列の造形的な元ネタはこの「最初のヤマト」にあるのだなあということがよくわかった。

 

例えばヤマト坂のところで舷側が内側に折れ込んでいるという、このシリーズのみに見られる独特の造形は、

 

この絵の彩色をもとにそのように解釈したのだとみることができる。

 

舷側のオレンジの線を境にその下で赤矢印のように内側にアールがついているのもゼンマイ系独特の造形なのだが

 

これもこの絵の影の付け方からそのように解釈したのだろう。

 

艦橋の形も要所要所でよく似ている。例えば①第二艦橋とその下の坂が普通なら赤線のように折れ目で繋がっているのが、キットでは黄色線のようになめらかになっているところも、この絵からそのように解釈したと考えられる。

②青線で囲った艦橋の根本の楔形の台座もこのキット独特のもので、それもこの絵に基づいていると思われる。

 

他にもレーザーの台座などよく見ればこの絵から造形を読み取ったのだなと分かる個所がたくさんある。

 

絵を立体に解釈する難しさは一度でも自分で試みたものならばみな身に染みて知っている。

 

今の我々ならありもののキットを足掛かりにできるので相当楽だが、このキットはそういう参考になるものが全くない中での立体化だ。

 

そんな悪条件の中で、使えるわずかな資料を実に丁寧に読み取ろうとしたことがこのキットの造形からうかがえる。原形の製作者の努力に感服せざるを得ない。

 

寸詰まりで不格好なおもちゃもどき、と目されがちなゼンマイヤマトとそれを祖にするシリーズも、「世に出た最初のヤマトのビジュアルイメージを受け継いだ立体物」としての存在価値が再評価されるべきではないだろうか。

 

これをベースに最初のヤマトの絵を再現するのも面白い試みなはずだ・・・が、いかんせんベースとなるべきモデルがすでに入手困難。

 

バンダイさん、再販しませんか?

 

ゼンマイヤマトの系譜 その4

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永遠に版の仕立て直し終了。

 

基本はゼンマイリスペクトの水色で、最初のヤマトイラストを意識した陰影を軽く吹く形にした。煙突が紺色なのも、このイラストに基づく。

 

入手前は、以前作った野村トーイ版とサイズが同じくらいだろうから並べると面白いだろうと思ったのだが、実際に並べてみると大分違っていた。

(野村トーイの艦橋の羽根が派手に歪んでるw写真を撮ってるときは気づかなかった・・・)

 

じうこさんのブログを拝見していると、このヤマトは一時期1/1000という扱いだったことがあるようだ。野村トーイの縮尺は1/1200なので、サイズ違いはまあ当然ということになる。

 

ただ、25センチほどなので、1/1000というにはすこし小さい。のちに発売された1/1000と並べるとこんな感じだ。

サイズもそうだが、プロポーションが大分と…

 

ちなみに2199版の1/1000との比較。奥の2199版はほぼ無改造。

サイズ感は大分違うが、横から見た艦橋のボリュームはだけはあまり違わない。

 

こちらは2020版の1/1000をベースに旧作設定図に寄せるように改造したもの。設定図バランスとの比較として。

 

話はそれるが毎度ヤマトは何色で塗るのがいいのかと思う。

奥の2199版は普通に軍艦色で、手前はそれよりも紫に振った色なのだがこれもさして違和感を感じない。大丈夫な幅がけっこう広いのだ。

 

水色もありといえばありだろう。ゼンマイを作ったときに、印象の違いを比較もしやすいはずだ。

 

とはいえゼンマイヤマトの方を私が作る気になる日は来るのだろうか。当面眺めるだけだろうが、もしその日が来たらそれが私が作る最後の模型なのかもしれない。

 

 

 

 

 

シン・宇宙戦艦ヤマトはこうなる

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「さらば」ブームの夢よもう一度だったはずの2202は結局跳ね損ねた感は否めず、2205もどうなるやらで、リブートヤマトシリーズも減速感は否めない。

そんな中で、巷間にささやかれるシン・ヤマトの可能性はまさにワンチャンというやつだ。権利者、スポンサーの皆様にはぜひ、庵野監督のネームバリューでもうひと稼ぎという欲を持ってほしい。

まあそれはともかく、ヤマトの造形考察がこのブログの本分なので、庵野監督がヤマトを造形したら、どんな姿になるのかについて。

これには3つのアプローチがある。

 

1)本人の描いた絵、

2)本人の発注によるガレージキットとそれをベースにしたプラモデル

3)そのプラモデルの参考資料として庵野秀明が挙げた絵

 

だ。

まず、本人の描いたヤマトの絵ということになると、挙げられるのは「宇宙戦艦ヤマトコミックアンソロジー」に寄稿したこちらの絵ということになる。この本の出版が2000年。

 

そしてDAICONIIIオープニングアニメーションの設定資料集にあるこちらの絵。

これには庵野秀明が描いたというクレジットはないのだが、構図からバランスから全く同じなので本人の絵とみて間違いないだろう。これが1981年。

つまり、20年近い時間を隔てても、本人の描くヤマトはほとんど変わっていない。相当明確なイメージとしてこのヤマトを持っているということになる。

 
ただ、庵野秀明が2004年に原型師の真鍋真一にガレージキットの原形として発注したことがきっかけで、2008年のDVD Boxの特典として製品化されたプラモデルはこの絵のイメージ通りという感じではない。
 
 
この造形のイメージソースとなったのは、プラモデルのパッケージやホビージャパン2008年4月号のインタビューによると、
 
OPで艦長室からカメラが引いてゆくカット、

 

ヤマト大図鑑表紙裏(大図鑑ではモノクロだが、同じ絵が劇中に出てくる)、

 

ヤマト大図鑑センター折込 (出典はこちら)、

 

加藤直之の図解イラスト、

 

冒険王3月号の扉絵(これは絵がみつからなかった。が、Addictoeさんがこれではないかと示唆を下さっている。コメント欄を参照されたし)、

 

といったものだという。しかし上二枚の絵の波動砲は、模型のそれよりも庵野秀明の描く絵のヤマトに近い感じがする。模型の方の波動砲は下2枚の感じに近い。2次元の絵を立体物として整合が取れる形にしようとした結果そうならざるを得なかったのだろうか。


ただ、HJのインタビューではこの模型は決定版かと問われて、僕が思うイメージの一つだと答えているので、理想形にもある程度のバリエーションはあって、今回はこうした、という話かもしれない。

 

そうなると庵野秀明がヤマトを作ることなったらまた別の形が出てくるかもしれないわけなのだが、まあしかしおよそここに挙げたヤマトのデザイン要素を含んだものにはなるのだろう。

 

この話続くかどうかわからないが、いったんここまで。

 


 

シン・宇宙戦艦ヤマトはこうなる 蛇足

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庵野秀明の理想のヤマト像から生まれたDVD特典ヤマトについてもう少し。

 

前回紹介したように、DVD特典ヤマトの元になったガレージキット原型のイメージソースとして庵野秀明はいくつかの絵を挙げているものの、HJ誌のインタビューでは「今回は加藤直之さんの絵に寄せた形状で作っています」と言っている。

こうして角度を工夫して写真を撮ると全体のバランスも似ているように思えるが、細部においてもその傾向は確認できる。

 

例えばこのキットの第三艦橋は他のどの立体物とも違う、特徴的な角ばり方をしているのだが、このあたりも絵とよく似ている。

 

また、インタビューで庵野監督は原型では艦首ミサイルの発射口が3つとも喫水線の上だったが、マニアックすぎるのでプラモデルでは動かしたと述べている。この絵でもあきらかに喫水線があるであろう位置より上にミサイル発射口がある。

 

もう少し分かりにくい話になるが、艦首周辺にもこの絵の影響の痕跡を見出せる。ホビージャパン2008年4月号にはこのキットの修正前、もっと原型に近い状態の試作品の写真が載っている。

 

この試作品(左側)の波動砲口を製品版(右側)と見比べると、砲口の上辺がかなり上まで来ていることが分かる。

おかげで波除板と船体の間の接合線が波動砲の砲口で途切れてしまうという奇妙なことが起きている。右の製品版でも接合線と砲口の上辺が重なっているという変な造形になっているのだが、それ以上に奇妙だ。

 

この砲口を避けるように接合線を引くとこんな感じになって、

 

この絵の接合線ぽくなる。

 

 


 

煙突脇のパルスレーザーなど、明らかにヤマト大図鑑折込の絵の方を参考にしている部分はあるが、全体的にはおよそこの内部構造図解の絵が参考にされていると言えるだろう。

 

以前この青く彩色されたヤマトの絵とゼンマイヤマトのつながりを説明した

 

DVD特典ヤマトは彩色絵のさらに元になった内部構造図解の絵がデザインのベースとしてある。

 

生まれた時期も経緯もまるで違う両者だが実は祖先を同じくする親戚関係であるわけだ。

 

遠くて近きはヤマトの縁。どちらも今や幻のゼンマイヤマトとDVD特典ヤマトだが、両者にこのような奇縁があったことを知っているのは、私と、このブログの数少ない読者であるあなただけですよ。

 

そんなこと知っても何の得にもならない?いやいや、知ってて何の得にもならないことをいっぱい知ってる人生っていうのが、豊かな人生ってやつなんですよ・・・たぶん。
 

シン・宇宙戦艦ヤマトはこうなる 完結編

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前回、前々回でネタにした真鍋氏によるガレージキットの原型だが、結局ガレージキットとして販売されることはなかったようだ。

 

原型自体はどこへ行ったのかというと、スタジオカラーの打ち合わせスペースだ。先日のNHKプロフェッショナル仕事の流儀庵野秀明の回で一瞬映っている。

棚の右上、大和の上のアクリルケースの中だ。

 

なぜ原型だけで終わってしまったのか。原型ができたこと自体や、DVD特典でプラモデル化されたことで満足した、という要因もあるだろうが、それ以外の可能性をここでは指摘したい。

 

ゆりあんさんという方のツイッターを見ていただきたい。先ほどの棚のもう一段上とオフィスのPCの上それぞれに、2010年に出た1/500ヤマトのキットが飾られているのが確認できる。

 

 

庵野秀明が求めるヤマト像に共通する要素を列挙すると、

・上掲の絵のメモにもあるように、潜水艦のような丸い断面形

・ただし船の前半分に関しては縦長で、喫水線から上が高め

・ミサイル発射管は少なくとも2つは喫水線の上

・波動砲口はやや上寄り

という特徴がある。

 

2010年に出た1/500ヤマトはこうした特徴をほぼ備えている。

 

2008年にDVD特典のキットが出たわけだが、それから間もなく庵野秀明のもとにもこの1/500ヤマトの商品企画の噂が聞こえてきたはずだ。それがほぼ自身の好みに近いものだった、ということになれば、ガレージキット化の計画が消滅するのも不思議ではない。

 

いうまでもなく、といいつつ以前書いたことなのだが、2010年発売のこの1/500ヤマトは、その時点では公になっていなかったヤマト2199のデザインを利用したものだ。

 

つまり、このヤマトがガレージキットの原型と並んで飾られているという事実は、2199のヤマトデザインが、庵野秀明にとっても十分好みに合うヤマトであることを示している。

 

さて、ここでいよいよ「シン・宇宙戦艦ヤマトはこうなる 完結編」、という今回のタイトルに立ちかえろう。

 

結論を先に書くと、もしシン・ヤマトが実現するとするなら、それは2199の再編集・部分新作という形が最も現実的だ、ということだ。

 

理由についてだが、まず、今回の考察から庵野秀明はヤマトの造形に関しては、2199のモデルを受け入れるだろうと考えられる。

 

そして、無印1974年版以外のヤマトについて庵野秀明はほとんど興味を持っていないし、仕事が来ても食指を動かさないに違いない。

 

スポンサーにとっても好都合だ。2199の資産を再活用すればゼロから無印を再構築するよりもはるかに時間とコストを節約でき、(監督が暴走しない限り)スケジュールも読みやすい。

 

大口スポンサーのバンダイにとっては更に美味しい。一通りのメカはすでにラインアップされているわけで、ありものの金型でもう一稼ぎできるチャンスになる。

 

このように、好条件が揃うのだ。

 

またイスカンダルに行くのか、という問いに対しては、当のエヴァが同じ話を3回やってもなおちゃんと稼げた、という事実を提示したい。

 

ここからはより個人的妄想感が増すが、私としては、やるなら3部作くらいの映画でやってほしい。2時間の映画一本で往復してしまうと1年の旅をした感じが全くなくて、毎度物足りない。3部作なら間がある分その間も楽しめる。

 

そうなると後半になるほど制作は後ろにずれ込み、3部作はいつの間にか4部作になり、ガミラス星での闘いはほぼ完全新作になるかもしれないが、それはそれでむしろいいんじゃないだろうか。

 

と、こういう予想・願望めいたことを私が書くと普通に外れるのがお約束だ。まあ外れが明確になった時点で新たなる「こうなる」を書くことにしたい。「さらば」とか「完結」とかを冠しておきながら、しばらくしたらしれっとなかったことにして再開できちゃうのがヤマトのお約束なのだから。

 

夜のロボット

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もしエヴァンゲリオンのシンジが、賢く、強く、しっかりとした自分を持った子供だったとしたら、視聴者のストレスはおよそ半減しただろう。

そんなんじゃ面白くないよ、と言われそうだが、それでも緊張感あふれる面白いお話は作れる。

Webマンガ「夜のロボット」は物語のフレームや細部にエヴァの影響を強く感じるものの、作者である匙田洋平の作家性を反映して、独自の魅力にあふれる作品になっている。

主人公は大道寺ふみ子。突然アメリカから帰ってきた大学教授の父によってロボットのオペレーターにされ、父が離反した「組織」との争いに巻き込まれる。

しっかりした自分を持ち、不可解なことには大声でなぜなのかを問い、必要があれば自分から積極的に動く、シンジとは対極にいるような女の子だ。おそらく可愛いのだろうが、大抵のコマであまり可愛く描いてもらえていないのが不憫。

物語はシリアスに進むが、時折入るコメディタッチな展開がそれを和ませる。ロボット同士の戦いというアクション要素もあり、娯楽作品として誰が読んでも楽しく読める内容だ。

一方で世界に対して抱く漠たる不安や、大人たちの都合で振り回される不条理、人間関係に対する苦悩、こうした問題の数々から解放され全てが許されるどこか別の世界への憧れ、そうした青少年特有の心象が、実に凝った構図とコマ運びで描写されている。

作者の構図とコマ運びへのこだわりはこの作品の漫画としての大きな魅力の一つだろう。

物語は第3部が終わったところで、大人たちの対立の構図が大きく変わりそうな気配だ。今後どうなるのか楽しみなのだが、物語の終局まで続いてくれるかが実に心配。

作者の意欲が続いてくれることを祈りたい。

 

 

 


漁港の肉子ちゃん

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「薄情もんが田舎の町に後足で砂ばかけよるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ」

中島みゆきの「ファイト」の歌詞は、日本の田舎の陰湿な残忍さを刃のように突き付けてくる。

創作物に現れる田舎、地方はしばしば極端な描かれ方をされる。

極端の片方がこの「ファイト」のような、昔ながらの人間関係、上下関係に縛られ、排他的で、不自由さに満ちたディストピア。

そして反対の極端が豊かな自然、暖かい人々、古き良き風習で都会から落ち延びて来た人をやさしく包むユートピアだ。

地方で生まれ育った私のような人間が時々創作物に感じる違和感のひとつなのだが、まあ遠くの地にこことは大分違うユートピア、あるいはディストピアがある、とというのは、人間が抱きやすい世界観なのかもしれない。山のあなたの空遠く、というやつだ。

「漁港の肉子ちゃん」はユートピア譚の方だ。舞台は日本海側の小さな漁港ということになっているが、著者は東日本大震災で被災する前の石巻を旅した際にこの物語の着想を得たという。

かつての石巻の町並みは津波で押し流されてしまい、距離だけでなく、時間的にも過去という遠く隔たった存在になった。こうなるとユートピアとして描かれるのはもはや必然だ。

主人公は漁港の焼き肉屋で働くお母さんの肉子ちゃんと娘のキクりん。

物語はキクりんの目線で語られる。周りの大人は皆やさしいが、思春期を迎えているキクりんの日常はなかなか平穏ではない。

二人が東京からこの漁港に流れ着いた経緯。

クラスの女子たちの勢力争い。

唐突に変顔をする謎の少年。

「皆殺しの日ィー!」と叫ぶペンギン。

ゆらぐキクりんの心を、この物語におけるもうひとつの理想の存在である、どこまでも明るく、人の良い肉子ちゃんが支える。
 

海は時として荒れるが、やがては凪いで陽光が差す。そんな物語だ。文章もユーモラスで楽しい。素直にファンタジーを楽しむつもりで読むべき小説だ。

 

私のように、そんな理想の田舎ってそうないよなあなどというひねくれた目線をもってはいけない。

 

この本、いつの間にか家にあったので読んだのだが(嫁さんが買っていたらしい)読んだ後映画の宣伝を見たら謎の少年二宮君が二枚目に描かれていてびっくりした。あの二枚目顔じゃあ小説での奇行は大分マイルドに変えられてるんだろうなあ。

マイケル・サンデルともののけ姫の共通点

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ブログもご無沙汰なのだが、この夏は仕事がひとつ区切りがついてすこしほっとした。

 

思い立って部屋の片づけをするうちに棚を作り直したくなり、のこぎりの刃を新しくしたらこれがよく切れること。ものすごく気持ちがいい。

 

小物入れを作り直したり、

(100均の木製トレーを引き出しに使っている)

 

コンプレッサーとエアブラシを置く台を作り直したり、

(必要に応じて引き出したり引っ込めたりできるようにした)

 

部屋のあちこちに手を入れまくっているうちに夏が過ぎてしまった。

 

で、本題のマイケル・サンデルの「実力も運のうち 能力主義は正義か」だ。いまだに本屋に行くと目立つところに並んでいるのでよく売れているのだろう。

 

日本でも昨今のネットの論調はことごとく自己責任論だがそんな中で「エリートの地位と報酬はおよそ運のたまものだ」と論じるのだからまあ注目もされる。

 

サンデルはアメリカ社会が巨額の報酬を得る大卒・院卒エリートと、教育の機会が得られない貧しい労働者に分断されてしまっている現状を嘆き、恵まれた境遇は自分の努力と功績に基づくのだから当然だというエリートの驕りを、論理的に突き崩してゆく。

 

政治哲学者であるサンデルは哲学の論理を素人にもわかるように説明してくれていて、ほとんどのところは明快で刺激的だ(初めてこの手の話に触れる人には特にそうだろう)。

 

ところが結論になるととたんにけむに巻かれたように何が言いたいのか見えなくなる。格差や社会の分断はよくない、エリートたちの功績は本人のおかげとは言えない。それではどうするべきか。重要な問いであり、当然そこに注目はあつまる。

 

エリート層が、弱者のための課税を受け入れてくれればいい…という話になりそうだが、哲学者であるサンデルはそうした所得の再分配だけでは満足しない。それでは弱者は与えてもらうだけの立場に甘んじることになり、彼らの尊厳が救われないし、分断は癒されない、ということらしい。

 

じゃあどうすればいいんだよ、ということになるのだが、サンデルの結論はみんなで公に話し合わなくては、という実に抽象的というか、ぼんやりとしたものだ。

 

なんだそりゃ、である。

 

実のところ、私はサンデル本を結構読んでいるのだが、毎度こんな感じで、結局具体的な社会に対する提案は見えないまま終わる印象なのだ。

 

というわけで、タイトルに立ち返って、マイケル・サンデルの本ともののけ姫の共通点について書き並べると

 

  1. 著者・監督はその道の権威
  2. テーマは社会にとって重要な意義を持つもの(格差や社会の分断・文明社会vs自然)
  3. 部分を見れば魅力的で最後まで惹きこまれる(わかりやすい哲学理論の解説・美しく印象的なシーンの数々)
  4. しかし終わってみると結論・結果はすっきりせず、著者・監督が何を訴えたいのかよくわからない
  5. 読者・観客は釈然としないのだが、相手が権威なのでなんだかケチもつけにくい

ということになる。

 

もののけ姫の場合なぜこうなるのかについては、押井守の「誰も語らなかったジブリを語ろう」でばっさりとやられている。

 

サンデルに関してはどうかというと、なんとなく見えてきた気がするのだが、結構紙幅を使いそうなので書く気が起きたらということにしようと思う。キーワードはこのジブリ本でも言及されている樋口真嗣監督の「パンツ理論」だ。

 

マイケル・サンデルのパンツの中をさぐる その1 フェラーリをあきらめよ

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前回取り上げたマイケル・サンデルのネタを最後まで書いてしまおうと思う。

 

勝者の功績は偶然の産物に過ぎないのだから、金持ちは自分たちの得ている巨額の報酬を当然と思うべきではない。そんな内容で話題の「実力も運のうち 能力主義は正義か?」だが、こういう主張はべつにサンデルだけのものではない。

 

例えば経済学者ロバート・H・フランクは著書である「運と成功の経済学」でも同じように論じている。そしてそれを是正する案として累進的な消費税を提案している。


フランクは、自身の主張する累進的消費税を受け入れても金持ちは実質上損をしないのだ、と説明することに結構な紙幅を割いている。

 

例えばこの絵のように、税金を払った結果自分の車が超高級車(フェラーリ)から高級車(ポルシェ)に格下げになったとしても、財源が確保されたおかげで道がきれいになるなら快適に車の高性能を楽しめてよりハッピーなはずだ、というわけだ。

 

 

道のような公共財とは無関係な、ブランド服や高級レストラン、高級不動産に対する消費でも金持ちは累進課税から損するわけではないことをフランクは丁寧に説明している。(なぜそうなるかの理屈は長いので省略)

フランクはマスメディアで積極的に「成功は運のおかげ、大きな課税を金持ちは受け入れよ」と論じている。その結果、評論家やテレビキャスター、視聴者・読者にさんざんに否定されるという経験をしている。

こうした論争の中で、相手を説得するために構築し磨き上げてきたのが累進課税を受け入れても金持ちは別に損しない、むしろ得すらするという論理なのだろう。

つまり、同じような問題意識から始まっていても、経済学者の主張はより具体的だ。またその具体性ゆえに反対してくる人が現れるわけだが、それに対してどう反論し説得するかという戦略も用意している。

それに対してサンデルの主張は、現状は望ましくないということを丁寧に説明こそすれ、ではどうあるべきかという話になると具体策がなくあいまいで、ふわっとしている。

さて、ここでいよいよ前回述べたパンツ理論にお出まし願おう。これは樋口真嗣監督の理論で、「監督はどうパンツをおろすかでその資質が問われる」というものだそうだ。そしてその論によれば宮崎駿は「脱ぎそうで脱がない」監督だという。

ちなみに庵野秀明は「脱いだら変なものがついていた」監督、押井守は「脱いだらなにかあったがそれはニセモノだった」監督らしい。

つまるところパンツの中にその監督の性癖、本質があるわけだが、ここでもう一度私は膝を打つわけだ。パンツを脱ぎそうで脱がない、これもまたサンデルと宮崎駿の共通点ではないか。

お話としては、ここからサンデルはなぜパンツを脱がないのか、脱いだらそこに何があるのか、と展開してゆく。

おじいちゃんのパンツの中の話題なんて一体誰が興味あるんだよとお思いだろうが、ちゃんとオチに向かって構成しているつもりなので、お付き合いいただければ幸いだ。
 

マイケル・サンデルのパンツの中をさぐる その2 サンデルの〇〇ポジ

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アメリカ大統領選挙は日本でも大きく報じられる。だから2大政党の一方が保守の共和党、もう一方が革新(リベラル)の民主党だというのもみんな何となく知っている。だがその中身ということになるとどうだろうか。

経済政策で言えば、政府は市場にあまり介入しない方がよいし、社会保障も最低限でいい、というのが保守だ。それに対してリベラルは政府の市場での役割や公的な社会保障を重視する。

さらにもうひとつ重要な保守・リベラルの対立軸がある。それは同性婚や堕胎を認めるかどうかといった、社会的な価値観の相違だ。保守派は同性婚や堕胎に否定的だ。これは要するにキリスト教的価値観に基づくものだ。

ヨーロッパから初めにアメリカに移民してきたのが自助を厭わないプロテスタント達だったことを思えば、「経済的には自由主義、価値観はプロテスタント」が保守なのは自然だ。そしてその対極にあるのがリベラルということになる。



 

しかしそうするとこのマス目には空きが2つできてしまう。経済的にも、価値観的にも自由を重視する考えはないのか、というと当然あって、そういう考えをリバタリアニズム、と呼ぶ。

そして残りのマス目、経済的には政府の役割を重視し、伝統的価値観も重視するような価値観の人々は、共同体主義といわれる。

 

そして、サンデルの思想はこの共同体主義に属する。伝統的価値観(共同体のなかで共有する価値観)を重視しながら、大きな政府を志向する。もちろん、こうした区分はだいぶん乱暴で、同じ共同体主義を標榜していても論者によって大分立ち位置が異なる。

状況を整理したところで、なぜサンデルはあいまいなことしか言わないのか、という話に戻ろう。理由はいくつか考えられる。

理由の一つはおそらく、昨今の政治がらみの言論界が、相手へのレッテル貼りとそのレッテルに基づく非生産的な相手への否定に終始しがちだからだ。

論理も事実も一顧だにせずただ相手の政治的立ち位置だけをターゲットにして罵りあう場から学者が距離を置きたいと考えるのは気持ちとしてもまあわかる。

もう一つ考えられるのが、自分(達)だけが真実を理解していて、他の連中は愚かだと思いこんでいる人々に問いをぶつけ、実はあなたたちもわかってないんだよと自覚させたい、というのがサンデルの言論活動の動機だ、ということだ。

つまりサンデルは現代のソクラテスを気取っている。政治イデオロギーにおける無知の知を布教しようとしているのだ。

さらにもう一つ考えられる理由はあるのだが、それは最後に回したい。

というわけで、サンデルの政治思想ポジションと彼がパンツを脱ぎたがらないわけの話をしてきたが、共同体主義は彼の本質=パンツの中身を表すわけではなく、本質がもたらした結果でしかない。


しかし共同体主義を経由してサンデルの本質に迫ることはできる。そこで次の回ではそれを使ってサンデルのパンツをすこし下ろし、ハンケツくらいまで行かせようと思う。

 

(今回・次回のネタについてはここを参考にしている。)
 

マイケル・サンデルのパンツの中をさぐる その3 ハンケツを言いわたす

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前回マイケル・サンデルが共同体主義を支持していることを述べた。ただサンデルは自分の政治的信奉を押し出すことに慎重なため、彼が結局社会をどうしたいのかがわかりにくい。

毎度けむに巻かれた気分になるので、私はこの一連のブログ記事のタイトルをはじめは「マイケル・サンデル被害者の会」としていたくらいだ。

ところが彼が共同体主義なのだとわかっていると、彼がどこに向かって話を進めたいと思っているのか分かりやすくなる。

例えば同性婚。リベラリストやリバタニアンは道徳的な価値観の問題には中立的で、どちらの肩も持たない。なので反対しない。双方が合意して行うことを他者が妨害する理由はない、というわけだ。

誰だって他人の価値観を押し付けられたくはない。だからこの「道徳的価値観から中立」というのは社会に受け入れてもらいやすい考え方だ。実際、長い紆余曲折はあったが同性婚はアメリカ全州で認められるにいたっている。

サンデルはその著書(「これから正義の話をしよう」p.326~)の中で同性婚を取り上げているのだが、自分の賛否については明言しない。

 

ただ同性婚をめぐるある裁判の判決文をとりあげて、同性愛を認めるならば一夫多妻だって認めるべきだろうとか、アリストテレスの言い分を持ち出してその結婚に共同体が称賛できる名誉があるのか考えなくてはならない、とか言って終わる。

(サンデルと同様の論法でノートPCと結婚させろと裁判を起こした男のニュース

ここでの表向きの主旨は、どんな問題も道徳的に完全に中立であることはできないし、そう装っている言説も実はその論理を掘り下げると中立じゃないよ、ということだ。

そうなると、あんたはどんな道徳に従うべきだと思うんだいサンデルさん、という疑問が当然浮かぶのだが、サンデルはそれには答えず話題は次に移る。肩透かしを食らう感じになるのだが、サンデルの政治ポジションが分かれば、サンデル自身は同性婚を認めたくないのだな、と知れる。

このように、決してパンツを下ろさないサンデルの思想の本質=パンツの中に迫るには、彼が信奉する、「共同体主義」を経由するのが手っ取り早い。

ギリシャ哲学の昔から善悪に関する考察、正義とは何か、は哲学の重要なテーマだ。理由なく人を殺すことは悪だと誰だって考える。では理由があれば悪ではなくなるか。例えば5人の人を助けるためにその5人と無関係なひとりを殺すことは善か悪か。以前書いたトロッコ問題だ。

明確な答えのない善悪でも、最終的に決めなくてはいけないとしたら、どこによりどころを見出すか。共同体主義は、人は社会的な生き物だ、ということを重視する。

 

人は自分の属する共同体とのかかわりの中で自分の価値を見出す。自分の価値を規定する共同体はすなわち自分の正義、善悪の判断のよりどころだ。つまり物事の善悪もその人が属する共同体の価値観と無縁ではない、ということになる。

共同体主義は近年の個人主義の蔓延や、それによる利己的、自己中心的なふるまいの横溢する社会に対する反発としての立ち位置を持つ。そして良好な社会は共同体の中で共有される道徳文化に依拠すると考える。

しかしそうなると、社会がよくなるにはその前提として人々がみなそれぞれの共同体に不可分に属していいないといけない。

個人的にはこうした考え方は、共同体に属することができなかったり、属していた共同体に裏切られたり、抑圧されたりしたことのない、幸せな人だけが信じることができる考え方だと思う。

例えばランボー(後の能天気アクションじゃなくて無印の)のように、国のために戦ったのに帰ってきたら国に裏切られたという感覚を持つ人はとても共同体主義には共感できないだろう。

なんというか、極端な言い方をすれば「おめでたい」「幼い」考え方だと私には思えるのだが、実のところそれがサンデルの思想の本質なのかもしれない。次の回ではいよいよサンデルのパンツを引きずり下ろし、その中身をつまびらかにしたい。

 

先に結論を言うと、彼の股間には野球場があるはずだ。つづく。
 

マイケル・サンデルのパンツの中をさぐる その4 フィールド・オブ・ドリームス

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マイケル・サンデルの著書「実力も運のうち」は本文が323ページもあるのに、結論の章は7ページしかない。

彼は能力・功績主義に染まった現代社会が不当で不善であることをそれだけのページ数を使って論じているわけだが、じゃあ社会をよくするために具体的にどんな方策が必要か、という段になると、

「多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。なぜなら、それが互いについて折り合いをつけ、差異を受容することを学ぶ方法だからだ。また、共通善を尊重することを知る方法でもある」

と、具体性のカケラもないふわっとした世界を提示するにとどまる。

他に何かないかと彼の著書の中から彼の理想とする社会の具体的な姿やその例(多様な人々が出会い、折り合いをつけ、差異を受容する場)を探しても辛うじて見いだせるのはかつての公立学校、国立図書館、軍隊(!?)くらいで、それらもせいぜい軽く言及される程度だ。

唯一、彼が複数回、そして相当の紙幅を割いて語るものがある。それが彼の少年時代の野球場での思い出だ。

「それをお金で買いますか 市場主義の限界」の最終章で、サンデルは自らの思い出として野球に夢中になり、父親に連れて行ってもらった野球場で地元の球団を応援したことや現代にも名を残す著名メジャーリーガー達からこころよくサインをもらった思い出を語る。

共同体主義の信奉者としてのマイケル・サンデルの原体験はこの古き良き野球場での景色であることは間違いない。

サンデルの認識では、かつての球場は「多様な職業や地位の市民が」が出会う「共通の空間」であり、互いに差異はあっても、同じ球団を応援するという祝祭に一緒に身を投じるなかで、皆が同じコミュニティーに属する間柄であることを確かめ合う場だ。

著書の中でサンデルは今や野球場にはVIP向けの超高級席ができて金持と庶民は分断されていること、選手は昔と比べても桁違いの報酬を取りながら、サインボールなどを販売してさらに儲けていること、あるいは選手が善意でサインしてもそれが転売屋の儲けの種になっていることを嘆く。

私がそこで思い起こすのが映画フィールド・オブ・ドリームスだ。

ケビン・コスナー演じるトウモロコシ農家のレイは不思議な声に導かれ、自分の畑を一部潰して野球場に作り替える。するといずこともなく往年の名選手たちが現れ、その小さな球場で試合に興じる。

 

レイはやがて野球選手の夢をあきらめたまま死んだ父の姿を見出し、失われた父との絆を取り戻す。

私は確信をもっていえるが、マイケル・サンデルはこの映画が大好きなはずだ。

映画ではたくさんの人がこの不思議な球場の試合を見に集まるであろうことが示唆されて終わる。コマーシャリズムに汚される前の、輝かしい時代の野球を見に人々が集い、野球を愛するという一つの思いを共有する場が復活するのだ。

映画の中盤でレイが出会うある老医師は、かつてチャンスを生かせず終わった野球選手なのだが、その後町医者として自分の住む町に尽くしたことに誇りを覚えている。共同体への忠誠と貢献は共同体主義者が大好きな考え方だ。

どこをつついてもサンデルが好む要素が満ちている。

というわけで、この長く続いたエントリもいよいよ大詰めで、結論はすでに予告した通りなわけだが、マイケル・サンデルの股間には何があるか。

彼のパンツを無理やり引きずりおろすとまず彼の子供の頃からのコレクションであるベースボールカードがバラバラとこぼれ落ちるだろう。

 

むき出しになった彼の股間に目をやるとそこにはトウモロコシ畑が広がっていて、その中に小さな緑の球場がある。いまや失われ、夢の中の存在でしかない、フィールド・オブ・ドリームスだ。

彼が共同体主義を信じられるのは、彼が幸せな時代に幸せな場所で少年期を送り、何の理不尽にも苦しめられずに成長したからだろう。彼は共同体からはじき出されたり、抑圧されたり、裏切られた経験がないのだ。

だからお膳立てさえすれば自然とみんな出会い交わり、コミュニティーを共有するもの同志として互いに折り合いをつけるようになるはずだなどと考える。

映画に劣らないファンタジー的発想だ。

ハーバード大の政治哲学教授という大権威に、我々はついつい無条件にひれ伏してしまうが、その前に彼のパンツの中の幼稚なファンタジーを見透かすことも必要だろう。

あるいは彼がパンツを脱ごうとしないのは、この幼稚さを無意識にでも自覚しているからかもしれないのだが。
 

コスモ終活

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夏の片づけの合間にいくつか未組み立てプラモもヤフオク送りにしたのだが、作りかけはそういうわけもいかない。コスモゼロの作りかけが出てきたので仕上げることにした。

 

そもそもやり始めたのがいつなのかと見返すとなんと2013年だ。その少し前にメカコレスペシャルボックスでブラックタイガーが新規で出たので、せっかくならコスモゼロと並べたいと思ったのだが、

 

並べてみるとなんだかコスモゼロが小さくて、ちょっと負けてる感じがする。

 

胴体を伸ばして

ブラックタイガーとのバランスととろうとしたのだが、胴体だけ伸ばすと相対的に羽根が小さく見えて単体としてのバランスが悪くなってしまった。

 

・・・というところで放置状態のまま実に8年がたっていたわけだ。今回あらためて眺めてみて、もう少し縮めればいけそうだと思い直した。

 

それで5ミリほど長さを調節した。

まあまあよさそうだ。単体でのバランスもそれほど変には見えないし、サイズ的にもブラックタイガーに負けてない。

 

胴体ストレッチのついでにキットでは潰れている主翼上下のエアインテークもちゃんと開口することができたのもいい感じだ。

 

塗装して仕上げた。

 

 

最後はいつものようにセリアのコレクションボックスに収まる。以前作ったコスモタイガーIIと並べてもいい感じだ。

 

これでブラックタイガーも仕上げればヤマト艦載機三羽烏の出来上がりだ。

気力視力根気が続くうちにやらないと・・・。


メカコレブラックタイガーを作る その1

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2012年にヤマト2199ではブラックタイガーが出ないことを知って始めた当ブログのブラックタイガー保護活動だが

 

 

翌年非常に出来のいいブラックタイガーが新規メカコレとして出たことで少し溜飲を下げることができた。

 

 

しかしいくら待っても単体発売されず、入手しにくいまま。

 

作るとなるとなかなか手が出なかったのだが、それからもう9年が過ぎている。これも終わらせてやるべきかと思って手を付けることにした。

 

モナカ構造の機体に羽根を挟み込む構造になっているのだが、

付け根の噛み込みを切り飛ばして後嵌めできるようにする。

 

シャークマウスのシールが付属していて、このシールに合わせて機首の下側が薄くへこんでいるのだが、シャークマウスは使わないので、0.3ミリのプラシートを貼り付けてへこみを埋める。

 

機体表面の裏にピンがある個所が少し窪んでいるので、均しておく。

 

前回の記事ですでに出ているのだが、コレクションボックスに収まってもらう必要上、機体を斜めにできるスタンドが必要になる。これは2199のメカコレシリーズのスタンドにジョイントを繋げて作ったものだ。

 

こうして塗装前の写真を見ると、戦闘機らしいスピード感も攻撃機らしい力感も備えていて、実にいい感じの造形をしている。

 

ブラックタイガーの特色である黒黄色矢印塗装は実はちょっと派手すぎて、機体造形の魅力を損なっているように思える。化粧が派手すぎてそっちの方で印象付けられてしまっている人みたいだ。

 

ブラックタイガーは何となくメカというよりキャラクターという感じがあるのだが、その印象のほとんどがこの配色のせいなのだろう。

 

いろんな塗装を試してみたい気はするが、それも叶わないので今回は無難に塗ってゆく。

 

というところで次回。

メカコレブラックタイガーを作る その2

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ブラックタイガーの塗装なのだが、そもそも配色で迷うことになる。

 

上面はもちろんおなじみの黒黄色矢印で、何も迷うことはない。問題は裏面だ。

 

劇中での配色はバラバラもいいところ。

 

特に機首とそれに続く肩の三連機銃の塗分けの線引きが毎度のように違う。

 

三連機銃の上下で黄色/白だったり

 

機銃部分は下面まで回り込んで全部黄色だったり

 

さらには機首下面まで黄色とか

 

下面全部黄色いやつまで

 

実はこの劇中でのでたらめ配色はコスモゼロもそうなのだが

 

これは無印の話で、以降のシリーズでは安定し、それが2199にも引き継がれているので真似すれば済む。

 

なんかいい参考物ないかな…そうだ説明書は?

だめか。なんかこれ下側ちゃんと塗り分けてないんじゃないの、と怪しんでしまうくらいの角度で撮られていて、いまいち参考にならない。

 

というわけでもう自分で方針を決めることに。肩は全部黄色。上下塗り分けは難しいし失敗しそうなので。機首下面の塗り分けは、機体下面と機銃部分のつながりから自然に伸びるくらいの感じでいくことにした。

 

ちまちまとマステを貼って剥がしてを繰り返し、途中で何度かマステに塗料を持っていかれてまた塗り直し。

というところでつづく。

メカコレブラックタイガーを作る その3

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前回の記事にgollyさんが「EXモデルはどうか」とコメントを下さったので、小屋裏から引っ張り出してきた。

 

表面からして配色がアニメの設定図と微妙に異なるので、そのまま参考にはならないのだが、割と下面深くまで黄色部分が回り込んでいる色設定のようだ。

 

ついでに言うとこれをもとに作画しているであろうアマチュア時代の玉盛順一朗(Tama名義)のブラックタイガーではモナカの上下で色の切り替えが来ている。

 

ちなみにEXの機銃の前に2本斜めに線が走っているが、これの元ネタはおそらく98年のPS宇宙戦艦ヤマトでの宮武一貴の手による設定画だ。

こちらはなんと裏も黒になっている。ブラックタイガーをたくさん揃えてオセロしようと思ってもできないのだ。

 

どちらも直接参考にはできないが、この2つはブラックタイガーのデザイン論について考えさせてくれる。

 

かつての、例えばマジンガーZのようなスーパーロボットは、実のところはメカというより「乗れるウルトラマン」ともいうべき、キャラクター的な位置取りだった。キャラクターなので一度登場すれば、運用で汚れて行ったり、分解整備を受けたりせず、常に燦然と敵の前に現れた。

 

ガンダムは実際の軍用機のように整備が必要だというシーンを入れることで、リアル路線へ片足を突っ込み、視聴者をあっと言わせた。

 

モデラーも即座に反応し、以降架空メカの模型にもメンテナンスハッチが開けられ、ドロ汚れがつき、塗装が剥がれ、ノズルには煤が付くようになった。

 

*一応大急ぎで補足しておくと、劇中での整備補修という点ではヤマトの方が先駆けている。

 

実はブラックタイガーのデザインはメカらしくなく、どちらかと言えばキャラクターに近い。メンテナンスハッチやパネルラインを入れると、それらの線であの特徴的な矢印が区切られてしまい、印象がとっちらかる。

 

パネルの線に沿って色をくすませるとか、塗装がはがれた様子を作るとさらにその傾向が強まるわけで、そもそもとしてリアルメカ路線に持っていきにくいのだ。

 

*一応21話で加藤の乗機がハッチを空けての整備を受けているのだが、なぜかブラックタイガーではなくこのカットにのみ登場する謎の戦闘機になっている。

 

EXもPSもキャラっぽいブラックタイガーをメカに引き寄せようとした成果なわけだがPSの方は換骨奪胎がすごくてオリジナルの面影が薄い。EXは元のデザインを尊重していてその分苦労の跡が偲ばれる感じだ。

 

今回は劇中のブラックタイガーらしさを作りたいわけなので、そこまでリアルメカしなくてもいいだろう。ただあまりピカピカではおもちゃっぽさが出るだろうし、そのあたりの加減だけなんとかしたい。

 

…と何も製作について書かないうちに次の回へ。

 

 

 

メカコレブラックタイガーを作る その4

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前回も取り上げたEXモデルは目の部分が機銃になっている。

そう見える描写が劇中にないわけではないので、ダメとも言えないのだが、自分的にはどうも好きじゃない。

 

普通に強そう感を出すためのペイントってことでいいんじゃないの?

 

で、このメカコレ、白目の部分が凹で彫刻されていて、塗分けの時にやりやすくて親切だ。

 

…と思って塗ったのだが、なんだか引きで見たときにどうも目に力がない。

もともと模型自体が小さいうえに、白目の境目がくっきりしないせいで、印象が弱いのだ。

 

多少大げさにしたほうがよさそうだということで、目の彫刻に沿ったふちどりをデカールで作って貼り付けることにした。

 

うん、これでよくなった。

 

・・・とその時は思ったのだが、まだなにか物足りない気がしてきた。

 

あらためて設定図と突き合わせてみると、この模型の目は少し小さめだ。

 

しまったなあ、目をもっと大きくするべきだったし、それならさかのぼって白目のへこみ彫刻もあらかじめ埋めておくべきだった。

 

反省点ではあるが、まあ素直に作ったらこうなるという例だということでそのままにしておくことにした。

ヤマト2205はおもしろいよ

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ブラックタイガーの話はまだ途中なのだが、ペースが遅くていつ終わるかわからないので今のうちに書いておくべきことを。

 

先日2205後章を見てきた。

 

2202ではテンションが急速に下がっていって10話で見るのをやめてしまったくらいなので、正直2205への期待値は低かったのだが、結果的には前章後章ともにとても面白かった。

 

振り返れば2199で一番面白かったのは「方舟」だったし、こういう幕間の話の方が余計なくちばしを挟んでくる人がいなくてうまくいくのだろうか。

 

 

個人的に嬉しいというか、いいなあと思うのが次世代の芽を育てる方針が見えること。

 

前章では土門がほとんど主人公みたいなものだったし、後章ではデスラーとスターシャが話の軸なので、土門の出番はないだろうなあと思っていたら、ちゃんといいところで見せ場を作った。

 

ヤマトが今後も続き、発展してゆくために主人公の交代は必要で、旧シリーズはそれに失敗したことが一つの遺恨だと私は思っているので、安直に殺されないで次世代を担って欲しい。

 

それと、ヤマトの造形が2202からさらに改訂されて、より良くなっている点も嬉しいところだ。これについてはまたそのうち詳しく書きたい。

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